その時歴史は動いた。ような気がする。
2015年1月10日OA「嵐にしやがれ」ゲスト:東山紀之 この回が嵐をずっと担当としてきた者として特筆すべき回になってしまったので居ても立っても居られず、私はこう思うメモを自分でも残したくなった。あくまで個人的見解だが、それでも2000年からずっと嵐を見てきた自分は、自分だって歴史の証人の1人だと思っているので、こう見えていたやつもいるよ、という体感の記録である。
先に謝る。無駄に長いです。。。
まず問題の発言。は、文字起こす気力がないのでTwitterから拝借させてくださいorz(失礼します)
【嵐にしやがれ 2015.1.10】東山紀之① 東山:自分たちが、こうなんか、ぐーっと盛り上がってきたなって瞬間があんじゃん?それはなんか…、なんかあったの?国立なんてまさにそうなんだけどさ。 松本:んー…。なんか、すごい真面目な話。もっと前なんですよね。自分たちが感じるのって。
— (.゚ー゚)φ (@uraniwa_memo) 2015, 1月 10
【嵐にしやがれ 2015.1.10】東山紀之② 東山:うん。 松本:タイミング的には2006年なんですけど。アリーナツアーをやってるときに、いつもと同じ公演数をやろうとしたら、チケットを取れない人がいます、みたいな話になって。でも、コンサートの日数を増やすスケジュールはありません
— (.゚ー゚)φ (@uraniwa_memo) 2015, 1月 10
【嵐にしやがれ 2015.1.10】東山紀之③ 松本:どうしますか?って言われたときに、じゃあ、それだったら、1日2回やってるのを1日3回にするっていうことはできるんですか?っていう話をして。で、できるってなって。で、その日本のツアーを回った後に、アジアに始めて行ったんですよ。
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【嵐にしやがれ 2015.1.10】東山紀之④ 松本:その辺からなんか…こう…。 東山:ぐーっと盛り上がってきたなって? 松本:いろんなことが、ちょっとずつ、その次に繋がってく、みたいなことがあって。日本に帰ってきて、そのアジアでやったのが好評だったから、日本でもう1回
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【嵐にしやがれ 2015.1.10】東山紀之⑤ 松本:コンサートを、それ持って帰ってきてやりましょう。って言ってやったら、そこでもお客さんが入りきらず。それだったら、ドームでやろうって言って。で、次の年、気が付いたら5大ドームやらせてもらって。で、国立やって。とかって、なんかこう
— (.゚ー゚)φ (@uraniwa_memo) 2015, 1月 10
【嵐にしやがれ 2015.1.10】東山紀之⑥ 松本:次に全部繋がってくっていう。 東山:思いもよらない方向に行くよね。なんか、自分の、その受けた感じと合致する瞬間ってのがやっぱりね。あるからね。 松本:なんかね、不思議でしたね。今なお不思議ですね。その…。 東山:そうねぇ。
— (.゚ー゚)φ (@uraniwa_memo) 2015, 1月 10
先に結論を言うと、私の体感は「2006年に始まって、2008年で止めを刺した」である。嵐の盛り上がり=ブレイクは2年かけてじわじわと行われた。なぜ2年かかったのか、それは5人全員にスポットライトを当てないと完成しなかったからである。
- 呪いが始まった2004年
「ブレイク」ということだけに着眼するとまず特筆すべきは2004年の24時間テレビでいいと思う。それ以前も色々、まあ色々あったんだけど、っていうかおたくとしては多分一番幸せな時間だったんだけど、でもとにかく当時は停滞している感はないが、仕掛けたことがイコールブレイクにつながるとは到底思えない時期。そんな時に「トップになりたいって夢絶対叶えようね」という呪いが吐かれた。あれは今思うと呪いだった。ここで初めて、アングラ嵐を愛していた嵐担たちは「え!!あんたたちそんなとこ目指してたの???!><」と動揺し、動揺するけどでもまさきの涙を眺めながら漠然と「わ、わかった、そこまで言うなら私達がそこに連れて行ってみせるよ…!」みたいな心の契約を交わしてしまったのである。(当時の嵐ブロガーたちはそんな雰囲気だった)
- むしろ体感速度失速の2005年
なのにその翌年、もう言うまでもなく有名なWISH握手会事件である。事実はたくさん語られているけど、とにかくショックだった。握手会が決まったのが嵐が出ていたMステ中で、20時何分とかにFCからメールが来た。(※間違えた。決まったのは花男中だった。22時何分とかにメールが来ていた。だから花男を見てる場合じゃなかったのだった。)友達とすぐメールした。「なにこれどうする?始発だよね?私バイトだ………いや行くしかないよね。明日シフト変えれるか聞いてくる」(握手会は、告知の2日後の日曜日)
かんなり悲壮感にあふれていた。ショックでMステを最後まで見られなかった。*1 22時になり花男が始まってもあまり頭に入ってこないまま*2、翌朝のバイトのために寝た。トップになりたいって言ってたのに…3週目の後輩にすら勝たせてあげられない…。あの時、たぶんみんなそういう気持ちだったんじゃないかな、握手会に行けない地方の人も、せめてCDを買いましょう!少しでも1枚でも、みんなで嵐を支えよう!そんな話が確か、当時の嵐ヲタなら絶対見ていた某サイトさん*3の掲示板でされていた記憶。*4
確か『WISH』は2000枚くらいの差で『青春アミーゴ』に勝ち、週間1位を獲得した。
- オワタ…と思っていたら空気が変わった2006年2007年
からがら後輩に勝ったのはなかなかの爪痕を残し、華々しくデビューした後輩を見ながら、トップはもう厳しいんじゃないかと思った *5 。丁度この頃、全メンバーの舞台出演が続いていたので、このままテレビではなくて舞台の人になるのかなと思っていた。が、7月、プライベートジェットでアジアにご挨拶、空港で大歓声で迎えられる姿がセンセーショナルに報道される。*6 10月、ZEROが始まる。12月硫黄島公開。年明けて2007年1月花男2。2月ラブソーリリース、あゆや平井堅に絶賛される。え、なんか最近嵐すごくね?って思い始める。最近すごくね?ってやっと思ったのが2007年の前半だったと思う。そこからは潤が言うように、すごくね?がどんどんつながっていった。
- じゃあ嵐はいつブレイクしたのか
結局これなんだが、これ私は潤が花男を当てたこと(2005・2007)に加え、翔くんがジャニーズ初の報道キャスターとなったこと(2006)・にのがハリウッド俳優となったこと(2006)・智が個展を開いたこと(2008)のジャニーズ初だったりジャニーズなのにスゴイ!3部作があったからだと思っている。「嵐ってすごいね!」「こんなこともできるんだね!」とすごく言われるようになったし、報道する側としても特記しやすくなった、箔がついたと思う。で、そうなると「そういえば相葉ちゃんってすごく面白いよね。可愛いよね」となるのである。まさきはずっと実績を重ねてきたので残念ながらここっていうのがないのだが、嵐が注目され始めたことによって、ずっと積み重ねてきたことが評価されだした、という体感。
なので嵐のブレイクは智の個展をもって完成した、と私は思っている。ちょうどその頃、auのCMが決まったこと*7、4月にプライムタイムの1時間番組が始まったこと *8 もでかい。
まあそんなわけで体感の変化はこんな感じだけど、実際のところは「今なお不思議」これなのである。だって、WISHの時まじ終わったと思った。それくらい、「トップになりたい」云々からの3週目の後輩はツラかった。なんでそこまでドン底に行ったのが1年であそこまで盛り返し、ドン底の3年後には国立ライブ *9 をし、シングル年間1位アーティストにまでなったのか今でもよく分からない。ただあの3年がそれほど劇的な3年であったのは間違いないし、その間にあるキーワードは花男・報道番組・海外進出・個展かなと思っているのが個人的見解である。
*1:正しくは、このMステで発表されたランキングで1位が『青春アミーゴ』だった。ここでお通夜モードに突入する。自分のブログを見ると20:40にこんな投稿をしている→「どうしよう。もっと買った方がよいのだろうか。買って友人に配ればよいのだろうか。流石に3週目に負けるのはナイでしょう。しかも後輩…何か真剣にかわいそすぎます。可哀想、ってゆうのが可哀想なんだろうか。あーどうしよう。どうしたらいいんでしょうね、全国の嵐ヲタさん。」
*2:で、22:12にこんな投稿をしている→「やっぱり!!そうだよね、そう売るしかないよね!」
*3:アラノモトさんのこと。お世話になってました。
*4:結局私も普通に買ったものに加え、握手会で2枚、それ以外に1枚CD屋で買いました。学生にしては頑張った。
*5:が、その後輩がこの時期に突然留学したこと、も正直その後の嵐の状況に影響あるんじゃないかと思っている。
*6:今思えば、これがすべての始まりだったと思う。
*7:個人的には、あの爪痕を残した後輩たちが爪痕を残した頃ドコモのCMをやっていたのをものすごく羨ましく思っていたので、auが決まった時ようやく追いついたという気持ちになった。
*8:それまでは日テレ深夜とフジの昼間とどちらも非全国区の30分番組だけだった。
*9:チケットの取れ感も年々違った。自分は全ステタイプではなく、10公演くらいを理想としてチケ取りをしていたが、2006年まではほぼ思った通りに取れたのに2007年にアリーナがかなり取りにくくなった。がドームはまだまだ余った。が、2008年になったら東京ドームが取りにくくなった。が、地方と国立は難なく取れた。2009年、いよいよ国立も地方ドームも取りにくくなった。そして2010年、私は全滅に至る。