わたしの思い出

嵐の櫻井翔くんに一目ぼれしたのは私が中学生の時、翔くんがぎりぎり高校生のときだった。

自分でもすっごい変なタイミングだと思うんだけど、Seacret Agent Manのバックで出てきたオレンジ色のキャップをかぶったお兄さんに“一目ぼれ”した。

恥ずかしながらあれは恋だった。

そこから私の毎日は嵐のことばかり考え、嵐のことばかり話し、嵐のことに一喜一憂する毎日になった。

 

NHKのラジオ英会話を聴くために親が買ってきたラジカセを、TOKYO FMにチューニングするようになった。

22時からのテレビは40分くらいを過ぎたら見るのをやめラジオに向かうのが習慣になった。なのにうっかり22時50分を過ぎてしまったときはドン引くレベルで落ち込んだ。

テープに録音をしたラジオを何度も何度も聴いた。

夏休みにおばあちゃん家で過ごしている間も、おじいちゃんの古臭いラジオを家中持ち歩いて電波を探した。

手帳のウィークリー欄に毎日書いていた3行日記は、月~木は寝る前に聴いた嵐音レポで埋まるようになった。

そのうち、MDに録るということを覚えた。

それでも録り逃してしまった時は、ファンサイトを通して知り合った同担の友人が「封筒にMDを入れて」送ってくれた。(ストレージのURLを送れば済む今、なんならタイムフリーで聞ける今、笑ってしまう本当の話)

コンサートに行きたいと思うようになり、ジュニア情報局に入った。CDを出しているのに、「ジュニア情報局」に好きなタレント「桜井翔」で入った。

初めて生の翔くんを見たのは 2000.10.08 東京ドームの40ゲートからだった。

乗り換え駅で、同行する母に双眼鏡を買ってもらった。何がいいのかも分からないので母が適当に見繕った6000円くらいのケンコーの8倍だったと思う。後に防振を買うまで私の現場活動はこの適当に買った双眼鏡がお供だった。

40ゲートから、使い慣れない双眼鏡で追う翔くんは米粒だった。

 

1stアルバムが出る頃、やっと嵐にファンクラブができると発表された。ああ、嵐はちゃんとデビュー組だった、って安堵した。逆に言えば、その頃はJr.よりも扱いが悪いこともしょっちゅうだった。

ファンクラブが出来た日にすぐ入会した。でもそんなに早くもない番号だった。

その春、初めてコンサートに行った。

その頃ソフトコンタクトデビューして慣れないコンタクトで必死に双眼鏡を覗きこんでいたら、なんと翔くんのソロでコンタクトが片方外れた。そこからはずっと片目でコンサートを見た。予備を持って来ていない自分をものすごく恨んだ。(こういう時はいっそ両方外して双眼鏡のピントに任せた方がちゃんと見えるよ)

翔くんが初めて連ドラに出た。しかも何故か4週くらい連続でMステにも出た。この時期、私の1週間は金曜を中心に回っていた。1限の美術からずっと夜のドラマのことばかり考えていた。

手帳のウィークリー欄に毎日書いていた3行日記は、月~木は嵐音、金曜はドラマの感想で埋まった。

その夏、びっくりするくらい何もなかった。何も無すぎて翔くんが真っ黒黒に黒焦げて頭は変な金髪で、好みじゃなさすぎて相葉ちゃんに担降りしそうになった。

やっと、嵐だけのレギュラー番組が決まった。その話を知ったのが何故か普段乗らない大江戸線に嵐ファンの友達と乗っている時だったのを今でも覚えている。どこに向かっていたんだろう。

 

翔くん2度目の連ドラがこれまた最高すぎたので、また金曜を中心に1週間過ごすようになった。

嵐が自主レーベルに移った。最初はポニキャに捨てられた…やばい…と思ったが、その前の年は1年に2枚しかシングルが出なかったのに自主レーベルに移った途端、2ヶ月おきにシングルが出て映画まで撮ってくれるのでむしろ自主レーベル万歳!に手のひら返しで寝返った。

その頃には物珍しかったDVDも出してくれた。そのせいで相葉ちゃんは気胸になってしまったけど。

自主レーベルが作ってくれた映画は写真集も出してくた。お台場でセット展示のイベントがあったりもした。全力で初めてのお祭りに乗っかった。でも映画は映画館で公開してくれず、なぜか東京グローブ座でしか見られなかった。

 

翔くんが連ドラ初主演した。お昼の番組もあるし、私の1週間は土曜を中心に回るようになった。

でもこのドラマの主題歌(記念すべき嵐10枚目のシングル)は初登場2位だった。

コーラのCMにジャニーズ複数が起用され、その中で嵐の曲も使われた。嵐だけじゃないとはいえ、コーラのCMに出てるってやばくない?!嵐売れちゃう!今度こそ売れちゃう!って割と本気で思っていた。

でもやっぱりそのシングルは初登場2位だった。

ただ、この年のコンサートは冬も夏も天才的に面白かった。何でこんなにコンサートは面白くてルックスはかっこよくてかわいくてMCは楽しくて楽曲も素晴らしいのにみんな嵐の良さが分からないんだろう!みんな人生半分損してる!って本気で思ってた。悲壮感なんてなかった。

 

自主レーベルは映画の第二弾を撮ってくれた。ただしやっぱり公開はグローブ座のみだった。

この主題歌は売上ワースト記録となった。(なのに今は信じられないくらい人気上位曲)

この曲の宣伝で出た歌番組で初めて、嵐はもともと櫻井二宮松本の3人組だった、という話を聞いたとわたしは記憶している。当時心底びっくりしたから初耳だったんだと思う。

デビュー組の登竜門とでも言うべき24時間テレビのパーソナリティをやることになった。しかし何故かヒガシ先輩のフォロー付きだった。そんなに交流がある先輩というわけでもなかったのでとにかく悔しかった。嵐だけでできないことが悔しかった。

そんな状態で「トップになりたいって夢、絶対叶えようね」なんて言うから、あんたらそんなつもりだったの~?!とひっくり返った。

相葉ちゃんがどうぶつ園のレギュラーをつかんだ。

一方翔くんはなぜかミュージカルに出ることになった。正直、望んでいる方向じゃないから戸惑った。

そして、大好きな冬コンがなくなった。

 

「あなたにとって大切なOneは何ですか?」という呼びかけで始まり「僕ら嵐にとって大切なOneは、それは、ここにいるあなたです」というメッセージで終わる最高のツアーがあった。高校の友達と浴衣なんかを着ちゃって4連で入ったオーラスが今でも忘れられない。もちろんその時、大切なOneは迷うことなく「嵐~!」だった。

花男が予想外ににどんどん視聴率を伸ばした。なのに主題歌は後輩の勢いに勝てず、握手会で売り上げを稼ぐ伝説の握手会事件へと発展した。デビューの時の大集会も、ハダシの未来の時の握手会も行けなかった私は、このときはじめて嵐に触れることができた。でも嬉しいだけの思い出ではなく、その時の嵐の、翔くんの食いしばるような噛みしめるような表情は今でもちゃんと思い出せる。

 

冬コンがなくなったかと思いきや、冬に翔くんと智のソロコンがあった。流石にライブハウスキャパではチケットが全然取れず、何とか翔くんのに3公演、智のに1公演入った。

3104コン仙台、2階席から幼女の声で「さとしくん、だいすきー」という声が聞こえて皆でほっこりしたことを思い出す。すごくすごく寒い仙台で、本当に心温まる場面だった。

翔くんは何故か、ミュージカル2作目の主演をした。なぜだすぎた。翔くんがどこに向かわされているのか分からなくなった。

その頃、にのはハリウッドに行った。ちょっとだけ嵐が4人になった。

嵐はアジアツアーをすることになった。何故かプライベートジェットでプロモーションをした。それがえらいセンセーショナルに報道された。

翔くんがZEROのキャスターになった。

この頃はまだ、去年よりは目立つ仕事が多いなくらいにしか思ってなかった。

 

久しぶりに冬コンが横アリであったが全然チケットが取れなかった。

花男2があった。ラブソーがずいぶんと評価された。それでもまだこれで他の後輩グループに少しは追いついたかなくらいにしか思ってなかった。

その次に出したシングルをうっかり予約しそびれたら、初めて初回難民になった。

初めてのドームは人に譲るくらいチケットが余っていたけど、余ってるくらいなら行きたい!と言われることが増えた。それもジャニヲタじゃない人に。

 

携帯電話のCMに起用され、プライムタイムのレギュラー番組が決まった。

大野智の個展を見るために朝6時に原宿に行ったらもう整理券終了と言われた。

前年までアリーナツアーだったのに、いきなり5大ドームツアーになった。あのときはすんなり受け入れたけど、今考えたら3大でも4大でもなくいきなり5大だった。

挙句何故か国立競技場でコンサートをすることになった。

挙句何故かシングルセールス年間1位を取ってしまった。

 

気が付いたらテレビで芸人さんが嵐のモノマネとかするようになった。

気が付いたらものすごい数の人に10周年おめでとうと言われていた。10年見ていたわたしには、ちょっと他人事みたいに見えたこともあった。

 

気が付いたら深夜やローカルの番組も全部時間が変わって、プライムタイムに1時間番組が週3本になった。

気が付いたら国立も5大ドームもチケットが1枚も取れなくなった。ファンクラブができたその日に入ったあの名義で。

 

だんだん、嵐のコンサートに行っても心から楽しめなくなった。

隣の席の「ジャニヲタではないお客さん」に苛立つようになった。昔あったC&Rに自分しか反応していないことに気付いた。自分しか踊っていないことに気付いた。後ろの方の席から「すっごい熱狂的なファンの人いたね」 って聞こえてきたことがあった。ファン投票の結果が自分の希望と全然違った。周りの嵐ファンの友達とも気持ちが合わなくなった。

そんなことより毎日毎日帝劇のレポを見るのを楽しみにしている自分に気付いた。

 

たくさん悩んで、わたしは嵐から少しだけ離れた。

 

少しだけ離れたら嫌な気持ちは忘れて単純に尊敬とかあったかい気持ちだけになったので、これからもなんとなーくテレビをつけて、おっ、相変わらずやってるね!って、そんな距離感でずっと嵐はそこにいるんだと思い込んでいた。

どんなに他のグループを好きになっても、嵐を全く見ないなんてことはなかった。できなかった。今までみたいに必死に録画はしない、テレビの前に正座もしない、ただお皿でも洗いながらなんとなーく見てる、そんな距離感でずっとわたしの人生のどっかに嵐はいるもんだと思っていた。

 

「メンバーそれぞれの道を歩いて行く」って読むと、身体の真ん中にぽっかり穴を開けられたみたいなすごい喪失感がある。

「最後まで」「残り2年」とか言われるとこわい。自分の身体の中の大切な何かがなくなってしまうような不安を感じる。

でも「最高のフィナーレ」が見たい気持ちもある。今まで誰もやれたことのない「最高のフィナーレ」も嵐なら作れるんじゃ、そこまでやられたらもうどんな後輩も追い越せないよ勝ち逃げだよハァ~カッケェ!!て謎の興奮すらある。

でもやっぱ、2年でも3年でも待つから、気が済んだら戻っておいでよ、待ってるよ、って言っちゃいたい気持ちもある。

よくわかんないけど、2019.01.27の感情として出会ったあの頃を思い出したくなったのでばーーーーっと浮かぶ自分の思い出を文字にした。

やっぱり、わたしの人生の半分は嵐でできているんだなって、改めて思い出した。