ジャニヲタは何故「担降り」するのに思い悩むのか、大真面目に考察してみた。

ジャニヲタもすなる担降りブログといふものを、我もしてみむとてするなり~!…と元担とわたしと現担のラブストーリー♡を紡いでやろうと下書きまでは書いたんだがやっぱり猛烈に恥ずかしくなってしまったので、趣向を変えて「私は何故ここまで担降りを恥ずかしがっているのか、気まずがっているのか」の言い訳をしてみることにした。(が、しかしこれすらやっぱり躊躇って何度も下書き保存で閉じている。)うっかり、これを3本くらい書いたら2単位もらえるのでは、くらいのボリュームになってしまったことを先に謝る。なるべく削ったんだこれでも。

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昨年、私は14年半応援していた嵐の櫻井翔くんから降り、Hey! Say! JUMPの伊野尾慧くんの担当になりました。そもそも、正に“誰でも”“大好き”な事務所担だった私にとって『担当』という概念を初めて覚えたのが翔くんでした。そんな私が「担降りとはなんぞや?」ということに頭を抱えだしたのは2012年のことです。何かもうほんとこんなに悩むほどのことかねえってくらいすごくすごく悩んで落ち込んでバカみたいに何度も友達と論争しました。

外から見ると「どうしてこんなにバカげたことを」と思うだろうのに当人にとっては本当地球が逆向きに回るくらいの大事件です。ましてや私の場合は15年に1度スケールの出来事だったのでとびきり重く捉えているところがあるでしょう。何がそんなに大事件だったのか、以下のお品書きでだらだらと言い訳したいと思います。

 

【1】あなたにとって『担当』とは?
【2】では『担降り』とは?
【3】何故『担降り』に頭を悩ませるのか
【4】担降りしてよかったこと
【5】担降りしてよくなかったこと

 

【1】あなたにとって『担当』とは?

担降り考える前にまず『担当』という言葉の定義をしましょう。正しい定義なんてなくてジャニヲタの数だけ存在すると思っていますが、私にとっての担当は「うちわを持ちたい人」です。*1私は色んなグループのコンサートや現場にお邪魔します*2が、余程の人がいない限りうちわは持ちません。ペンライトと双眼鏡のみで楽しみます。なぜなら、うちわはジャニヲタの日頃の愛の象徴だと思っているからです。
例えばふと行ったコンサートで隣の席のお嬢さん。彼女は毎日毎日そのアイドルが大好きで今日は待ちに待ったコンサート、その手に握り締めたうちわには彼女の日々の愛が詰まっているのでしょう。そこにふらっと遊びに来た自分にはそれほどの想いがあるのか?と思うとひどく居た堪れない気持ちになります。日頃の想いが乗っからないうちわなんて薄っぺらく思えて、こんなものアイドル様に見せるわけには…ましてやファンサなんて!私なんぞ無視してどうぞ隣のお嬢さんをめいっぱい幸せにしてくれ。なので逆に、うちわを持ちたい!と思ったときにはもう相当好きです。隣のお嬢さんが彼をどれぐらい好きかなんて知らない!私だって私なりに彼のことが好きなんじゃ!!と思って初めてうちわを作ります。その頃には割と日常的に興味を持っていて、雑誌をマメにチェックし暇な時はTwitterで検索しテレビも編集して保存してたりするので客観的に見ても結構担当めいたことをしていると思います。*3

この理論は逆もまた然りで、一度気に入ったアイドルでもそのうち「コンサートは行きたいけどうちわ持つほどじゃねーかな」ってなることもあります。席が遠すぎるとかの例外もあるかもだけど。私の場合こうなってくると担当というほどの熱量ではなくなっていると思います。私にとってうちわとはファンサをもらうためのものでもアイドルに見せるためのものでもなくて、自分の意気込みの現れ、ジャニヲタとしての自意識の顕在化の側面が強いです。

…そういえば「担当はタレントに似る」略して担タレって言葉があるけど私の日本語だと「担当=うちわを持ちたい人=タレント側」で、「自分の担当=自担」だから担当もタレも担当本人になります。でも例えばJUMP担と言えばHey! Say! JUMPを担当するヲタクのことを指し、ここで言う担当するという動詞の主語はヲタクでありタレントは目的語となるのであって担タレの場合は…あれ、ちょっと担当がゲシュタルト崩壊してきた。

 

【2】では『担降り』とは?

担降りもまたジャニヲタの数だけ定義があるでしょう。もう降りてしまえばほんとまるっきし興味がなくなる人もいる。元担なんてしらねーわーって元彼よろしく思い出の品を全て売り捌いてさらっと過去形にできる人もいるし、そうなれないのならそれは降りたと言わないという人もいる。
そのレベルを求められるなら確かに私は嵐から降りていません。録画もある程度はするし見るし保存するし初回も買う(DVDは買わないけど。BDにした。)雑誌も気に入ったやつは買うし、15年間のコレクションもほぼ手元にそのままある。こんだけやってたら降りたって言わないよ!と言う友達もいます。

私の担当の定義で言うと、複数担当容認派です。「X担でY担でZ担です」というのも全然ありです。「このグループだとX担で、あのグループだとY担です」も全然ありです。このように“X担の私”と“Y担の私”は共存可能ですが、その中でも主人格というようなものがあると思います。言い換えたら本妻と妾みたいな、正室と側室みたいなもんです。*4 何もひとつに絞る必要はないと思いますが、代表として何担を名乗るか(あるいは名乗らないか)はジャニヲタとして生きる上で重要な自己形成となります。

つまり私が担降りの必要性を感じたのは主人格に疑問を持ち始めたからでした。好きが増えても主人格を脅かすものでもないなら、好きが増えただけで難しく考える必要もないと思っています。しかしその順位が入れ替わっているようなら自分の中で整合性が取れない。ジャニヲタ人格の崩壊です。って言ったら流石に大袈裟*5すぎるけど、ジャニヲタにとってはきっとそれほどのことだからみんな思い詰めた担降り宣言をするし、担降りブログを書くのでしょう。

とはいえやっぱり仰々しかった気がするので言葉をカジュアルダウンしてまとめると、私の考える担降りとは“ジャニヲタという私”を改めて構築し直すことです。(元担をゼロにする必要はない)

 

【3】何故『担降り』に頭を悩ませるのか

お察しの通り私はこのようにバカみたいに重いタイプなので「降りれない降りれない」「降りたい降りたくない」と2年以上駄々をこねたのですが、何でこんなにもバカみたいに思い悩んだのかを紐解いてみます。

(1)相方との関係
多くの人にとってもこれが最大にして最難なのではないでしょうか。ジャニヲタの多くは特定の友人と相方関係を結びます。コンサートに行こうとする時に一人で行く人は少なく、大体は2枚以上取って誰かと一緒に行くはずです。このコンサートに一緒に行く相手をジャニヲタは「相方」と呼ぶのです。例えば片方が当選し片方が落選した場合、「じゃあ次は私があなたを連れて行くね!約束!」とかなるわけです。チケットが取りにくいグループや、何度でもコンサートに入りたい多ステタイプや良席重視タイプだと利害関係が発生するのでこれは非常にシビアな問題です。また相方は何もコンサートだけじゃなく、メンバー出演の映画を観に行くとかロケ地をめぐるとか付随するヲタク活動も行動を共にするような、いやそれすら超えてただただ一番の親友であるような非常にヘビーな契りとなったりします。こういった友人関係の場合常に同じレベルでヲタクであることを求めがちなので、相方と合わなくなっていくことを恐れます。降りても友達だよ!なんてよく言いますが、まあ実際はなってみないと分かりません。

(2)友達が減るんじゃないかという不安
相方に限らず、友達関係が担降りのネックな人も少なくないでしょう。ジャニヲタとして親しくなる場合、同じアイドルまたは同じグループが好き、というのが一番のきっかけであることが多いはずです。もしその共有ができなくなったらこの子もあの子も離れて行ってしまうかもしれない。よくTwitterの担降り宣言とかで「○○担としての私と仲良くしてくれていた人はリムーブしても構いません>< それでもいいよって人はこれからも仲良くしてください!」って言うのはこれが理由ですね。これも実際降りてみないと友達が離れていくかどうかは分かりませんが、降りたら降りたでまたそこに新しい出会いも待っているものです。 (2015/03/02 補足:私の場合これは直接の理由ではないですが、嵐担仲間とわいわいやってた頃はどんなにJUMPが気になっても本気で降りる気にはなれなかったです。色んなライフスタイルの変化で気が付いたら散り散りになってきたのがきっかけのひとつとなりました。)

(3)現担に対する執着
担当(担当G)が余程ショックなことをしたり絶望するほど裏切られたりしてもう降りた!とか、降りたいから降り先を探す!(もしくはいなくなった)っていうパターンもあるでしょうが、まだそこまで思いきれていない中だと“気になる彼”と現担を天秤にかけるという辛いフローが発生します。現担に対して多少なりとマイナスな気持ちもあるからこそ“気になる彼”が出てくるのでしょうが、現担だって最初は大好きで大好きで担当になったはず。振り返ればたくさんの楽しかった思い出があるでしょう。担降りをするということはその担当としてずっと刻んできた時計の針を自分で止めるということです。ちょっとでも現担に情が残っていればそれが苦しい選択であるのは十分想像できましょう。

(4)本当にこいつでいいのか?という疑念
え、お前ほんとにこいつでいいの?大丈夫?間違いない?降りた!つってやっぱ違ったやっぱやーーーーーめた!ってなるのはヤだよ?ほんとに?ほんとにこいつ?一時の気の迷いとかじゃなくて?大丈夫?現担と同じくらい愛せる?

(5)古参に対する遠慮
これは感じる人と、まっっっっっったく感じない人といると思います。っていうか絶対感じない人の方が多い。
私の話になってしまいますが、私が伊野尾くんに興味を持ったのはスパデリくらいの頃なので伊野尾くん的には大学3年生の終わり頃です。この時期の伊野尾くんは本当に隅中の隅で影中の影でひっそりとJUMP内にたたずんでいました。Johnny's webとドル誌が大事な生存確認の場で、舞台(サマリー)の出演シーンも少ない。正直大学生やってる方が楽しいのでは、彼は普通に生きた方が幸せなのでは、とファンが心配になるレベル。あの頃の伊野尾担はそんな状況で伊野尾くんを見つけ(もしくはJr.時代のキラキラした伊野尾くんからずっと振り落とされずについてきて)、他のファンより色んな意味で過酷な状況でも応援し続けてきた方々です。そこに「え、こいつこんなに真面目に大学生してたんだ!びっくり!気になる!」とふらっとやってきた私は、知れば知るほど先人達に申し訳ない気持ちを抱えていました。

~新規の私が覚えている2012年の伊野尾くんの主なトピック~

  • 野球大会で行方不明事件(翌日のスポーツ新聞にてインフルエンザだったことが報じられる ※当日にフォロー一切なし)
  • GWのコンサートで見学者から公開ダメ出し「伊野尾ちゃん、しゃべろ?」事件*6
  • ドイツで研究発表していたことが本人からでも事務所からでも報道でもなく大学サイトにて判明事件*7
  • 夏のツアーのJUMPバンドで一人メインステに取り残され事件(メンバーととにかく全然絡まない)
  • 光がガチ説教事件
  • 滝つ10周年コンでJUMPバンドかと思いきやキーボードにいたのは健人だった事件(そして帝劇の頃にはもうそりゃそうだよね…と納得してしまう)

2012年の伊野尾くんは大学4年生。4年なんて卒論書くだけ(だけって言うほど容易くないだろうが)なんだから、単純に考えてそれ以前の3年間の方がより過酷な状況だったろうと推測できます。で、これだけのおいおいおいって事がありました。

(2015/05/06 追記 今更だけど2012年の雑誌を読み返していたら寧ろ4年生の時が一番忙しそうだったかもしれない、と思った。文系である自分の経験を押し出しすぎたかもしれない。反省。)

2012年当時私が見かけていた伊野尾担さんは上記の事件に時折どよ~んとなりながらもそれでも支え続ける献身的な方が多かったです。*8そういうのを見ていると、この時期を支えてきた方には敵わない、という遠慮ばかり抱えるようになりました。それは今でもそうで、伊野尾くんが注目される度に、古参からしたら私らってウザいだろうな~ごめんね畑荒らして…という気分になります。

これ多分私の性分で、嵐を好きになった時も私は同じことを思ってました。当時のインターネットはホームページ(ファンサイト)の時代で、余程の知識と情熱を持った精鋭たちのみが城を築いていました。Yahoo!に登録されているサイト*9とか嵐全体で20もないくらいだったんじゃないかな。それだけの情熱を持つ人は当然Jr.時代から応援していたりKYO TO KYOに通っていたりとにかく上級者しかいなくて、特に翔くんとかそこまで華やかな道を歩いてきた人ではないからデビュー出なんて新規中の新規(永遠の新規という言葉が出てくる前で助かった)だと思ってました。嵐を語る資格があるのはこういった昔を知る上級者のみなのだと思い込んでいたので、デビュー出の自分でも偉そうに語っていいんだ、サイトとかやっていいんだ、と思えたのは4年以上経ってからでした。*10

この遠慮の仕方をするタイプは損だと思うし「そんなこと考えたこともない!」って颯爽と駆け降りてゆく人のほうが多いと思う(そしてそのほうがヲタク人生が愉快)でもこのじめじめタイプも一定数いるのではないでしょうか。いつまでも「新規の分際ですみません…」と縮こまり、「あーもー何でもっと早く見つけられなかったんだろう!」と自分を責め、「私なんかに語る資格なんてない…」と落ち込むタイプ。このタイプは担降り、というか担当増やしでもジャニヲタデビューなんでもいいけどとにかく私この人の担当になります!という宣言をすることがなかなかできないと思います。


【4】担降りしてよかったこと

長い…そろそろまとめに入りたい。皆さまに「担降りっていいもんだぜヒャッハー!とっとと降りろ~!」と言いたい訳ではないのでまあ費用対効果ってことで。

(1)「新規の分際で…ウッウッ」の期間をこれ以上延ばさずに済む
お前、ごちゃごちゃ言ったところでどーせ心はもう降りてるんだから、だったら一刻でも早く降りた方が傷が浅く済むぞ。と私の中の何かに諭されました。

(2)時間とお金のかけ方が変わる
カケモだった頃と絶対的に変わったのがここ。今まで義務的に嵐に使わなければいけなかった時間が結構数あったので、その時間をJUMPに使えるようになって昔のこととか知らないことを覚える余裕ができました。今までもJUMPのことは好きだったけどやっと本気で向き合えるようになったような気がするし、今まで分かってたようで全然分かってなかったんだなあと感じることがあります。これからも日々勉強!

(3)マイナスな気持ちを抱えながら元担にしがみついているよりむしろ素直に好きになれる
ここ数年、嵐担としての私は非常に窮屈な考えをしていて、「嵐担たるものこれを見なければならない」「こんなイベント、こんなキャンペーンがあり皆参加しているので自分もやらなければならない」「嵐担だから」「嵐担なので」とまあバブル以降の私は半ば義務的に嵐担をしていました。何故って、全てはコンサートに行きたいから。“純粋な~”ムーブメントを見るにつけ、確かに最近嵐を好きになった人はこんなことまでやってる、こんなに情熱的だ、この人たちと椅子取りゲームをしてでもコンサートに行きたいと主張するなら同等の努力をせねばならん、というプレッシャーを勝手に感じていました。加えて、やっぱりコンサートは落選だらけ。「嵐担なのになぜコンサートに行けないのか」「嵐担ではない人がコンサートに行っているのに何故私は外れたのか」という醜いことも考え出します。ああ、あれは本当に自分が醜くてしんどくて友達も減るし嫌だった。でももう嵐担でいることに固執しなくなってからは嵐の番組だって見なくていいものは見ない、見たいと思ったものだけ見る、見て楽しいと感じる、という非常にシンプルなものになりました。努力もしなくなったので落選したってまあそりゃそっか~、と受け入れやすくなりました。コンサートに行けば自分のノリが浮くことも、アラフェスの投票結果を見て自分は最早マイノリティなのだと打ちのめされることも、今なら「そんなもんか~まあそうなるよね~」で受け入れられる気がします。


【5】担降りしてよくなかったこと

母親にマジで嫌がられた。「やめてよヘイセイジャンプなんて!あんたこれからまた10年はやめられないじゃない~あぁ~~もう嫌~~~私どこで子育て間違えたんだろう~(頭を抱える)」*11
ちなみに最近は「もう流石にヘイセイジャンプで終わりにするよね??」と言われます。10年後のことなんて答えられません。っていうかもし娘でもできてたら今度は娘と一緒に新たな趣味を見つけている可能性のが高いだろうよ…。

マイナス点はこれしかないってくらい毎日楽しいです。母ちゃん、ごめんな。

ちなみに降りた後の嵐初現場もデジタリアンにて無事に済ませましたが、変に揺さぶられることもなく、ただひたすら「嵐カッケーーーーー!!!流石ーーーー!あ~これを14年半も見てこられた私幸せだな~。いやあ嵐さんの背中は偉大でまだまだ抜かさせないぞって感じで頼もしいっすわ~流石私が青春ぶっこんできた男たちだわ~」と鼻高々に満足して終わりました。楽しかった。



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とまあそんな感じで私が見る担降りイベント考察は以上となります。長々お付き合いくださりありがとうございました。担降りに悩んだ皆さまもそうじゃない皆さまも、これからもジャニヲタ人生が幸多からんことを!

*1:斗真や風間のような役者組に対して「担当」という言葉を使って良いのか躊躇われるところもこれが関係していると思う。

*2:なんせジャニヲタ20年もやってると色んなグループの担当の友達がいるので誘われることもちょいちょいある。親までジャニヲタ。

*3:その意味(うちわという自意識を持ったタイミング)で言うと私は2012年の夏には伊野尾担になっていました。

*4:こう考えると今は死語かも知れませんが昔の『副担』という言葉は便利でしたね。

*5:どうでもいいけど「大袈裟」って漢字は大袈裟先生で覚えた世代。\おーげさせーんせーーーい!/

*6:後日、この頃は大学に泊り込み大学と横アリの往復をしていたことが発覚。と言ってもこの発言があった日は休日で授業はなかったはずなのでこの日も大学から来たのかは定かではないが、それくらいひたすら大学生だったという時期。

*7:メンバーからは「旅行行ったんでしょ?いーなー!」くらいに語られる。温度差…。

*8:心折れきっていなくなられるパターンもちらほら見かけた。

*9:そう、当時は一個人のサイトをYahoo!に登録していたのだ!検索エンジンとかちゃっちいもんだったから!リンクとリンクをつながないとワールドワイドにウェブしていかないんだな!あと同盟とかな!

*10:ブログ文明以降の人はここまでハードルを感じないと思う。サイトを始めるなんて本当重い腰で、そこに生きる人間の数も少ないしホームページビルダーとかHTML本片手に四苦八苦してやっと完成するしFTPとかめんどくさいし、直感的に始められるものでもない。好きになったが吉日でTwitterとか技術的な意味で気軽に始められると現代とは感覚的にだいぶ違うと思う。

*11:だが降りることにした一番のきっかけは「あんたもういつまでも子供じゃないんだからあれもこれもはやめなさい!嵐行くならヘイセイジャンプは諦めなさい」「じゃあ嵐諦める。からJUMPは行かせて」「エーーーーーーーーーーーー」っていう母の作戦ミス。

ジャニーズのクレジットにおける名前順について考えてみる

本来横一列であるはずのグループのメンバーの名前をクレジットする際、誰から書くのか。年齢の上から順にしておけば無難なものを、最近はどうもそれだけではないらしい。つまりグループ毎にウチはこの順に載せるという暗黙のルールがある。
そんな微妙なルールの規則性が気になっちゃったので、各グループの公式クレジットルールを調べてみた。

ジャニーズ公式サイトJohnnys-net及び携帯公式サイトJohnnys webのProfileページ(両者に差異なし)の掲載順をオフィシャルクレジットと仮定する。*1 またこちらの都合で考察対象はSMAP以下NYCを除く14組とする。
なお本件の目的はあくまで各グループのルールを確認すること、である。メンバー間で序列づけるとか、その心を邪推するとか答えの出ない議論はなるべく避けたい。*2

 

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中居正広
木村拓哉
稲垣吾郎
草彅剛
香取慎吾

形式■年齢順
これほど昭和的で有無を言わせぬ並べ方はない。SMAPの場合、フロントメンバー格が年長組だったことも昭和ロジックに適していた。

 

城島茂
山口達也
国分太一
松岡昌宏
長瀬智也

形式■年齢順
やはり、清く正しく年齢順。

 

堂本光一
堂本剛

形式■年齢順
こちらも、清く正しく年齢順。


  • V6

坂本昌行
長野博
井ノ原快彦
森田剛
三宅健
岡田准一

形式■年齢順
カミセンからかと思いきや、清く正しく年齢順。

 

 

相葉雅紀
松本潤
二宮和也
大野智
櫻井翔

形式■名前順(名字のアルファベット順)
と、ここまで綺麗に年齢順だったのに、嵐はわざわざローマ字にしてそのアルファベットのABC順*3 という一見変わった名前順制度を採っている。何でわざわざこの並びにしたのか。それは「何となくその並びにしたらしっくりきたから」じゃなかろうかと思っている。
というのは後に本人がそう言っているくらいだからと失礼を承知で言うが当時一番知名度がなかったのが大野さんである。言ってはなんだが断トツで桁違いで差があった。そんなメンバーをフロントに置くのは正直収まりが悪い。名前順でもだめ。そこでアルファベットにしてみたら、エース格の風っ子*4 が綺麗に前に出て、更に3-2に分けた中で年齢順(ニノ潤が逆だけど)となり、秩序立っていた。最年長の大野さんではなく櫻井さんで〆ることになるが、まあ櫻井さんの裏番感とも相まって何か収まりがいい。年齢の若い順という案もありだったのではと今でこそ思うが、V6以前は画一的に年上からだったのを逆にするのはどうしても不自然。そこでこれは(アルファベットだが)名前順という大義名分もあり、うまいことまとめたなという印象だった。

滝沢秀明
今井翼

形式■名前順(ユニット名の)
このユニット名じゃそりゃあこの順番しか有り得ん。*5

 

  • NEWS

小山慶一郎
加藤シゲアキ
増田貴久
手越祐也

形式■コヤシゲとテゴマス
さてこっから本格的に複雑になってくる。年齢順を採ればシゲアキ先生と増田さんは逆にこなければならない。担当文字順*6 でも名前順でもない。ABC順? それなら合ってるけど厳密にいえば小山さんとシゲアキ先生が逆だ。これは推測になってしまうのだが、テゴマスは並べておきたかったのかな、というか6人時代ひいては8人9人時代からこの並び(要するにKKKity上がりの3人を並べていた)だったのかなと自分は捉えている。まあつまり、なんか納得できるけど明確な規則性はない。

渋谷すばる
錦戸亮
丸山隆平
安田章大
大倉忠義
村上信五
横山裕

形式■年齢順
ナ、ナ、ナ、何だこれはーーー!!これはもう年齢順でも名前順でも何でも説明がつかない。3馬鹿*7 が離されている時点で色んな規則性から逸脱している。
これはまさに、ヨコヒナの扱いは映画のエンドロールで最後にクレジットされる大物役者のそれである。本件においてこのような方式(エース格から始め、リーダー格で〆る並べ方)を便宜的に役者方式と呼ばせて頂くことにする。*8 あくまで便宜上です。一般用語では決してないので誤って世間で用いないように。(誰も使わない)真ん中の3人の並びは年齢順だとして、ヨコヒナははて。なんかこの辺はちょっとだけグレー。
念のために映画『エイトレンジャー』のクレジットも確認したが、そちらでは横山渋谷村上丸山安田錦戸大倉の順であった。これは綺麗に年齢(生年月日)順だが、1は横山さん視点の物語だったのも影響していそうだ。エイトレンジャー2になると渋谷横山以下同と二人の順が入れ替わるがこれも2は渋谷さんが主役格なのでまあ当然か。*9

2015/03/01追記

先日『十祭』のDVDを見せてもらったんですが、そのクレジットは「横山渋谷村上丸山安田錦戸大倉」の年齢順でした…!なんと!!どっちやねん!でもファンクラブの会員証は上記のジャニネ順の様子。ちなみにエイトは後述のカラグラ並びということはありません。黒・緑 だから。橙と青の位置的にグラデはない。

 

亀梨和也
田口淳之介
上田竜也
中丸雄一

形式■名前順(頭文字順)
メンバーの頭文字採りました系グループはそのままその並びにする以外の選択肢はなかろう。エースで始め、年長者で〆たい役者方式にも偶然ぴったり。

山田涼介
知念侑李
中島裕翔
岡本圭人
有岡大貴
髙木雄也
伊野尾慧
八乙女光
薮宏太

形式■たぶん役者方式(こわい)
はいきた。私がこれを調べ出した原因。
さすが平成!昭和の年功序列文化の真逆を行く若者順。昭和でShowは無理!イェイ☆ かと思いきや髙木の配置の謎。やぶひかが最後なのは役者方式と言えるだろうが(NEWS同様JJEとヤーでまとめた感もあり)それにしたって髙木伊野尾の配置は如何に。さしずめ7とBESTに分けた上で、先にデビューした旧7*10 を前に持ってきたといったところだろうが、そもそも山田知念中島の配置もグレーがかっている。年齢(生年月日)順でもない…ってもっと言えば、最初は裕翔からではなかったっけか?あれ違った?このルール適用されてるのいつから?(10人の時の並びも思い出すとまた複雑)
…うんこれ多分絶対的回答出てこないからこれ以上突き詰めるのはやめにしよう。ちなみに会員証は綺麗に若者順にクレジットされている。さすが昭和でShowは無理。*11

 

北山宏光
藤ヶ谷太輔
玉森裕太
横尾渉
千賀健永
二階堂高嗣
宮田俊哉

形式■3人と舞祭組
え?!何これ?!KAT-TUNよろしく頭文字順を期待して調べたのに、蓋を開けたら3-4だった…。
3-4の中で年齢順かと思ったのにそれも違った…。じゃあ3-4の中で名前順?頭文字順? と思ったのにそれも違う…ABC順も違う…。私にはこの法則が読めません。
ちなみにエイベのサイトは頭文字順でした。だからDVDのクレジットとかはその順番なような気がしますね。

佐藤勝利
中島健人
菊池風磨
マリウス葉
松島聡

形式■………
なぜ松島マリウスではなくマリウス松島なのか。これは3-2に分けて考えるべきなのか?いやでもなあ。*12 勝利さんは絶対的0番なのでそこは異論ありません。

橋本良亮
戸塚祥太
河合郁人
五関晃一
塚田僚一

形式■……?
役者方式!って言いたかったのになんかちょっと違う気がする。五関さんがトリだったらなぁ~。

重岡大毅
桐山照史
中間淳太
神山智洋
藤井流星
濱田崇裕
小瀧望

形式■もしかして虹色?
不思議~。最初の4人*13と3人ってわけでもないんですね。年齢順でも名前順でもない。役者方式つってもなあ…て思ったんですけどこれひょっとしてメンバーカラーを虹色に並べた感じ?ピンクって並んでるよね?!えっ面白い!でもじゃあメンカラはどうやって決めたんだろうね?まあだいたいイメージには合ってるよね。神山さんは衣装真緑なのに頭真っ赤で一人クリスマスがすごかったけど(あけおめコンなのに)

今ここに来て初めてこの可能性に気付いたのでキスマイの並びを見直してみたけど、ピンク水色う~~~ん………たぶん関係ないね。

えびはピンク…あ!これ、もしかしたらそれでか?!それなら納得!メンバーカラーのグラデーションって新しいな。

***


とまあここまで調べて私の中でぼんやり浮かんでいた疑問は少しすっきりしたが、単純明快に年功序列であった頃に比べれば、最近はやや恣意的で何のルールに則っているのか、複雑である。年功序列って昭和で日本人的で今時イケてないのかもしれないけど楽だったな~。嵐が変にひねりだしちゃったからもう!><と保守的BBAは面倒くさがりつつ、これにて終了とする。

ところでこれは本当に普遍的に使われている順序なんでしょうか。そこまで確認したかったけど、結局裏取れてません。もし、そもそもジャニネが異端だよ!なんてことがあったら優しく教えてください~。

*1:この順序がすべてのクレジットシチュエーションにおいて適用される普遍的ルールであることを期待している。例えばコンサートDVDやカレンダーとかのメンバー名掲載順やコンサートパンフレットの掲載順、レコード会社のプロフィールページ、FCの会員証にメンバー名の記載があればそれも。

*2:強いて主張があるとすれば「昔は良かったナァ」である。

*3:Aiba, Matsumoto, Ninomiya, Ohno, Sakurai でamnosという風に並んでいる。この表現は櫻井さんのラップに度々登場するので嵐ファンの間では有名だが、ラップ発祥ではなくむしろデビュー当時から基本この順で扱われておりそれを初めて言語化したのがLa tormenta(2004ではなく2001年のオリジナルの方)だと言えよう。

*4:嵐の漢字を山風に分解して相葉・二宮・松本の年下3人を風、大野・櫻井の年上2人を山と呼ぶ通称。これは昔嵐がカミセントニセンみたいにグループ内ユニットができると噂されていたこと、またJr.時代に属していたラインがこの3-2で分かれていたことに由来する。

*5:そもそも名前順や年齢(生年月日)順を重視するなら「翼&タッキー」であることについて言及してはいけない。

*6:4人で再始動した際にNEWSの文字を□♡▽○に見立ててそれぞれ一人ひとりに割り当てたアレ。どれが誰担当だかすぐ忘れるんだけど、Nはnews every.の小山、Eはentertainer(イッテQのエンターテイナー)手越、Wはwriter(作家)のシゲアキ先生、Sはstylist(衣装デザインしてる)増田という語呂をネットで見かけてから少し覚えやすくなった。本当の由来は知らない。

*7:補足するまでもないが、横山・村上・渋谷のおじさんベテラン3人のこと。

*8:ただこれ、後に見ていくと分かるが先頭と〆はいいとして、その間の配置がノールール気味…。

*9:参考までに嵐の場合、ピカンチシリーズは公式順(ダブルのみ主役格の大野さんが先頭にくる)、『黄色い涙』は役に合わせて、『最後の約束』は年齢順。V6の映画はいずれも公式(年齢)順。

*10:補足するまでもないが、山田・知念・中島・有岡・髙木の期間限定ユニット。

*11:って言うけどあの曲は「Hey! Say! JUMP」の曲ではないあしからず。

*12:教えてもらったんですが、やっぱり2014年の途中までは松島マリウスだったそうですね…そっか…。

*13:ジャニーズWEST4としてデビューが決まっていた重岡・桐山・中間・小瀧

その時歴史は動いた。ような気がする。

2015年1月10日OA「嵐にしやがれ」ゲスト:東山紀之 この回が嵐をずっと担当としてきた者として特筆すべき回になってしまったので居ても立っても居られず、私はこう思うメモを自分でも残したくなった。あくまで個人的見解だが、それでも2000年からずっと嵐を見てきた自分は、自分だって歴史の証人の1人だと思っているので、こう見えていたやつもいるよ、という体感の記録である。

先に謝る。無駄に長いです。。。

 

まず問題の発言。は、文字起こす気力がないのでTwitterから拝借させてくださいorz(失礼します)

先に結論を言うと、私の体感は「2006年に始まって、2008年で止めを刺した」である。嵐の盛り上がり=ブレイクは2年かけてじわじわと行われた。なぜ2年かかったのか、それは5人全員にスポットライトを当てないと完成しなかったからである。

 

  • 呪いが始まった2004年

「ブレイク」ということだけに着眼するとまず特筆すべきは2004年の24時間テレビでいいと思う。それ以前も色々、まあ色々あったんだけど、っていうかおたくとしては多分一番幸せな時間だったんだけど、でもとにかく当時は停滞している感はないが、仕掛けたことがイコールブレイクにつながるとは到底思えない時期。そんな時に「トップになりたいって夢絶対叶えようね」という呪いが吐かれた。あれは今思うと呪いだった。ここで初めて、アングラ嵐を愛していた嵐担たちは「え!!あんたたちそんなとこ目指してたの???!><」と動揺し、動揺するけどでもまさきの涙を眺めながら漠然と「わ、わかった、そこまで言うなら私達がそこに連れて行ってみせるよ…!」みたいな心の契約を交わしてしまったのである。(当時の嵐ブロガーたちはそんな雰囲気だった)

 

  • むしろ体感速度失速の2005年

なのにその翌年、もう言うまでもなく有名なWISH握手会事件である。事実はたくさん語られているけど、とにかくショックだった。握手会が決まったのが嵐が出ていたMステ中で、20時何分とかにFCからメールが来た。(※間違えた。決まったのは花男中だった。22時何分とかにメールが来ていた。だから花男を見てる場合じゃなかったのだった。)友達とすぐメールした。「なにこれどうする?始発だよね?私バイトだ………いや行くしかないよね。明日シフト変えれるか聞いてくる」(握手会は、告知の2日後の日曜日)

かんなり悲壮感にあふれていた。ショックでMステを最後まで見られなかった。*1 22時になり花男が始まってもあまり頭に入ってこないまま*2、翌朝のバイトのために寝た。トップになりたいって言ってたのに…3週目の後輩にすら勝たせてあげられない…。あの時、たぶんみんなそういう気持ちだったんじゃないかな、握手会に行けない地方の人も、せめてCDを買いましょう!少しでも1枚でも、みんなで嵐を支えよう!そんな話が確か、当時の嵐ヲタなら絶対見ていた某サイトさん*3の掲示板でされていた記憶。*4

確か『WISH』は2000枚くらいの差で『青春アミーゴ』に勝ち、週間1位を獲得した。

 

  •  オワタ…と思っていたら空気が変わった2006年2007年

からがら後輩に勝ったのはなかなかの爪痕を残し、華々しくデビューした後輩を見ながら、トップはもう厳しいんじゃないかと思った *5 。丁度この頃、全メンバーの舞台出演が続いていたので、このままテレビではなくて舞台の人になるのかなと思っていた。が、7月、プライベートジェットでアジアにご挨拶、空港で大歓声で迎えられる姿がセンセーショナルに報道される。*6 10月、ZEROが始まる。12月硫黄島公開。年明けて2007年1月花男2。2月ラブソーリリース、あゆや平井堅に絶賛される。え、なんか最近嵐すごくね?って思い始める。最近すごくね?ってやっと思ったのが2007年の前半だったと思う。そこからは潤が言うように、すごくね?がどんどんつながっていった。

 

  • じゃあ嵐はいつブレイクしたのか

結局これなんだが、これ私は潤が花男を当てたこと(2005・2007)に加え、翔くんがジャニーズ初の報道キャスターとなったこと(2006)・にのがハリウッド俳優となったこと(2006)・智が個展を開いたこと(2008)のジャニーズ初だったりジャニーズなのにスゴイ!3部作があったからだと思っている。「嵐ってすごいね!」「こんなこともできるんだね!」とすごく言われるようになったし、報道する側としても特記しやすくなった、箔がついたと思う。で、そうなると「そういえば相葉ちゃんってすごく面白いよね。可愛いよね」となるのである。まさきはずっと実績を重ねてきたので残念ながらここっていうのがないのだが、嵐が注目され始めたことによって、ずっと積み重ねてきたことが評価されだした、という体感。

なので嵐のブレイクは智の個展をもって完成した、と私は思っている。ちょうどその頃、auのCMが決まったこと*7、4月にプライムタイムの1時間番組が始まったこと *8 もでかい。

 

まあそんなわけで体感の変化はこんな感じだけど、実際のところは「今なお不思議」これなのである。だって、WISHの時まじ終わったと思った。それくらい、「トップになりたい」云々からの3週目の後輩はツラかった。なんでそこまでドン底に行ったのが1年であそこまで盛り返し、ドン底の3年後には国立ライブ *9 をし、シングル年間1位アーティストにまでなったのか今でもよく分からない。ただあの3年がそれほど劇的な3年であったのは間違いないし、その間にあるキーワードは花男・報道番組・海外進出・個展かなと思っているのが個人的見解である。

*1:正しくは、このMステで発表されたランキングで1位が『青春アミーゴ』だった。ここでお通夜モードに突入する。自分のブログを見ると20:40にこんな投稿をしている→「どうしよう。もっと買った方がよいのだろうか。買って友人に配ればよいのだろうか。流石に3週目に負けるのはナイでしょう。しかも後輩…何か真剣にかわいそすぎます。可哀想、ってゆうのが可哀想なんだろうか。あーどうしよう。どうしたらいいんでしょうね、全国の嵐ヲタさん。」

*2:で、22:12にこんな投稿をしている→「やっぱり!!そうだよね、そう売るしかないよね!」

*3:アラノモトさんのこと。お世話になってました。

*4:結局私も普通に買ったものに加え、握手会で2枚、それ以外に1枚CD屋で買いました。学生にしては頑張った。

*5:が、その後輩がこの時期に突然留学したこと、も正直その後の嵐の状況に影響あるんじゃないかと思っている。

*6:今思えば、これがすべての始まりだったと思う。

*7:個人的には、あの爪痕を残した後輩たちが爪痕を残した頃ドコモのCMをやっていたのをものすごく羨ましく思っていたので、auが決まった時ようやく追いついたという気持ちになった。

*8:それまでは日テレ深夜とフジの昼間とどちらも非全国区の30分番組だけだった。

*9:チケットの取れ感も年々違った。自分は全ステタイプではなく、10公演くらいを理想としてチケ取りをしていたが、2006年まではほぼ思った通りに取れたのに2007年にアリーナがかなり取りにくくなった。がドームはまだまだ余った。が、2008年になったら東京ドームが取りにくくなった。が、地方と国立は難なく取れた。2009年、いよいよ国立も地方ドームも取りにくくなった。そして2010年、私は全滅に至る。